幸せか幸せじゃなか、いちいち確認してないか?
そう考えた時はだいたい、いや100%、「幸せじゃないな」という判断になるから
それで嫌な気分になる
不快になる
機嫌が悪くなる
それが、悩みだ
自分の考え方次第だと、
自分の色眼鏡をかけ変えればいいだけだと、
そうやって、現状を幸せだと認識しようとする
それは、やればできる
でも、今度は、
幸せでもなんだか落ち着かないのだ
幸せになってはいけないと、どこかで思ってないか?
幸せなんか感じちゃいけないと思ってないか?
幸せなんて、自分には似合わないと思ってないか。
自分は幸せだなんて思っちゃいけない、
幸せだ、なんて思ってたら、バチが当たる
幸せだ、なんて満足したら、もう成長しない
幸せ、なんて、呑気な人が感じるもんだ
そう、思っている
だから、私は、絶対に、幸せにはなれない
そもそも幸せがどういう感覚かもわからない
幸せな気分ってそんなにいい気分なんだろうか?
「幸せ〜」なんて言ってほげーっとしていていいんだろうか?
わかった
私は幸せな状態を求めてるわけでもなく
もちろん、不快な状態を求めてるわけでもない
どんな状態か気づかない状態がいいのだ
自分は今幸せか否か?なんて考えなくて良い状態だ
それは、何かに夢中になってる時だろう
その何かは、別に意味がなくてもいい
無駄なことでもいい
ただ、夢中になれること
なんでもいい
夢中になって、
思わず夢中になって
がむしゃらになって
特に何を得るわけでなくとも
たとえ何かを失いさえしても
夢中になれるもの
夢中になれること
それは、幸不幸のジャッジをする隙を与えないもの
幸不幸について忘れていられる時間
そんなこと思い出しもしない時間
それが、私のシアワセだ
どうせ幸せは意味づけの世界のもの
そんなのは、一生、叶いっこない
世の中の、そして自分の偏見の、満足する幸せになんて
一生なれるまい
だってそれはいつも曖昧で、流動的で、よくわからない
だから一生なれない
なれるような予感はよくさせられるけど、
予感だけだ
だから幸せなんて、ないんだ
幸せか否かについて考えなくていい瞬間
それが、何かに夢中になっている時以外だったら
それは瞑想が成功してる時だろう
夢中ではない
気づいている
でも幸不幸をジャッジしない
何も、ジャッジしない
そんな瞑想ができたら
すぐに私はシアワセになれるね
夢中になれることをするより
瞑想の方が、簡単かも
どこでも、いつでも、できるからね
幸不幸を判断しない
判断する必要などないのだということを
心の底から思うこと
気づくこと
そう、気づくこと
判断に、意味はない
あれこれ感じる必要もない
いいも悪いもないのだから
そう思えるようになるには
やはり修行が必要だね
もう、判断しまくるクセがついてるからね
判断して、良い判断なら、満足してよし、
みたいなクセがね
判断して、悪い判断なら、落ち込めとね
その判断も、そもそも怪しいものなんだけどね
偏見のコレクションでしかない
私のオリジナルの
モヤモヤする時
不快なときは
何かに夢中になろう
そうでなければ、瞑想しよう
ジャッジしないチャレンジ
ノンジャッジ・チャレンジ
不快でなければ、幸せということにしよう
幸せという曖昧なものを無闇に求めるより
不快でない状態を目指そう
不快を駆逐しよう
それは穏やかな瞬間
平穏
ほげーっとしてるわけではない
幸せ〜なんつって浮かれてるわけでもない
平穏
心がまっさらな状態
何者にも邪魔されない状態
心を空にする瞬間
空(くう)
穏やか
何にも振り回されない
何にも囚われない
無理せず自然にその状態になれること
ちょっとした意識でそうなれること
それがやるべきこと、だな
幸せは、不快でないこと
不快でなくなるには、空になること
心を、空にすればいい
それだけだ
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