ヴィクトール・エミール・フランクル『夜と霧』を読んで

人生の意味を問うのではない、人生の意味をあなたが問われているのだ

「人生の意味って何だろう?」

「生きる価値ってあるのかな」

およそすべての人が一度は考えるであろうこの問いに対し、(いや、このような問いを一度も自分に投げかけることなく生きている人も世の中にはいるのかもしれないが)

フランクルはこう言う、

「人生の意味を誰かに問うのではない、人生の意味を何にするのか、あなたが常に問われているのだ。そして、それにあなたは、言葉ではなく、行動で答え続けるのだ」と。

そうか、問うのではなく、こちらが問われていたのか!なんという衝撃。

もちろん、この言葉から受ける印象は、人それぞれだろうし、同じ人でもその時期、年齢によっても変わってくるかもしれない。

私も、若かりし頃だったら、そんなに心に響くこともなく、

そうは言ったって

などと思っただろう。実際、似たような言葉に触れたことはあった。誰の何の言葉だったかは忘れたが、「人生の意味は君が自由に決めていいんだよ、もともと決まっていたら、つまんないだろう?」というものだ。今思えば、このフランクルのこの言葉をもとにして発せられたのではないかとも思う。

当時、その「自由」という言葉が重くのしかかったのをよく覚えている。きっとそれには重い責任が伴うに違いない、そしてその責を負う自信は、到底自分にはないと思っていたからだ。

フランクルの言葉は「自由に人生の意味を決めていい」と言っているのと同じだと思う。それを「あなたが問われている」と表現しているのだろう。

若くはなくなった今、これらの言葉は、私に重圧を与えない。

今なら、まったくもって肯定的に、そして希望を伴って、私に響いている。

毎日、行動で答えるのだ

そしてフランクルは言う。

その問いの答えを、あなたの人生の意味は?という問いに対する答えを、

日々行動で答えよ、と。

言葉ではなく、行動で答えよという。

言葉でつらつらと表現するのではなく、行動で表現せよと。

行動で?自分の人生の意味を答える?

どういうこと・・・?

行動で答えるとはつまり、自分はこういうことがしたい、だからやる、そしてそれがそのまま人生の意味になる、ということか。

それとも、そんな積極的な行動のみでなく、日々の行動すべてが、すなわち人生の意味になるのだ、ということか。

本の中では、苦しみさえも意味はある、と書いてある。

すべての行動は、意味があると。

意味のない行動などないと。

だから、あなたの行動がすべて、あなたの人生の意味になる、むだなこと、意味のないことなんてひとつもないのだ、と。

それが、「行動で答えよ」ということなのか。

自分の行動こそが、その行動のすべてが、自分の人生の意味を表している。

自分の人生の意味が知りたければ、自分の行動を見ればいい。

それがあなたの人生で、ただ、それだけだ。

そもそも、意味があるとかないとか、考えるべきなのか?

これは、結局のところ、

「ありのままの自分を見つめよ」

という、マインドフルネスの考え方と、かなり近くなってくるのではないか。

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