言葉があるから、思考がある
思考はいつでも言葉でしてる
思考は、私なら、日本語でしてる
頭の中に、言葉が浮かぶ
頭の中で、セリフが浮かぶ
頭の中で、誰かが喋り
頭の中で、自分が喋る
言葉を知らなかったら、思考もないのだろうか
外国にいると快適な理由、わかった
耳に入る日本語が減る
自分で喋る日本語が減る
思考するとき、外国語で考える機会が増える
少ない、外国語で
だから、自ずと思考は減る
考えたくても考えられない、外国語では
だから、ラクなんだ
だから、明晰で、感覚の方が鋭くなる
日本語で考える必要がなくなる
そういう意味で、外国に行くことは一理ある
余計なことを考えなくて済むから
日本語のセリフが、頭の中を巡らなくて済むから
思考は、制御できないそう
思考は、制御不能のロボットのようなものだそう
コントロールしようとしても無駄
できることといえば、その制御不能なロボットを、観察すること
「思考を観察せよ」
とは、まさに、そうすることしかできないから
制御不能のロボットを観察せよと
そうでなければ、制御不能のロボットを
自分自身だと勘違いしてしまう
ロボットと一体化してしまう
それは、辛いんじゃないだろうか
自分自身が、制御不能なロボットになるなんて・・・
確かに、実際は、そういう時があったと思う
あの時私は、まさに制御不能なロボットそのものになってなあと
それは一種のクセのような気もする
何年も続けてきた習慣
思考=自分と思い込んで
思考の〝思うまま〟に動いてしまう
それで楽しいことに繋がるならいいけれど
それで嫌な気分になるのなら
一旦その思考から離れればいい
思考は、私じゃないんだから
思考とは、エゴか?
思考がまるごと、エゴだったのか?
思考という制御不能なロボットは、エゴそのものだったのか?
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